2011/03/28
動物(哺乳類)の学習可能性
動物(哺乳類)は有効な行動ができなければならない。有効な行動様式は、哺乳類では学習的に獲得されると考えられるのだが、このこと自体が驚くべきことのように思われる。ある時点での経験を次の行動に生かすことができるということは、事物の類似性が判断できるということである。もし、類似性というものが存在しなければ、いかなる過去の体験も、将来の有効な行動のために利用することはできないであろう。
経験を次に生かすことができるためには、事物の類似性が判断できなければならない。しかし、類似性判断の基準となるのは感覚情報(と欲望および感情の動き)以外には考えにくい。
しかし、感覚情報の類似性とは何を示しているのだろうか。例えば視覚情報がビットマップ画像として与えられているとして、パタン認識などでは、この情報を直接使う形では判定が容易ではない。一般にはビットマップを加工して、いくつかのいわゆる特徴量と呼ばれるものを抽出した上で判断を行うのが通常である。ここで、特徴量として有効なものとしては様々なものがあり、しかもその有効性は適用される状況に依存して変化する。類似性の判定を十分正確に行おうとするならば、有効な特徴量の決定方法や、状況に応じたそれらの使い分けが必要になる。
行動に関しても、その効果を判定する必要があるのだが、ここでもまた、行動結果として事後に観察される感覚情報や感情をどのように近似性の下に一般化してとらえるかが問題となる。
動物は、特徴量の判定や状況に合わせたその使い分けまでを、完全に白紙の状態から、学習のみによって獲得しているのだろうか。これらすべてを学習によって獲得することは、全く不可能とは言えないかもしれないが、非常に困難な問題のように思われる。この問題を考えるとき、感覚の処理について動物はいくつかの傾性(disposition)を持っていると考えたくなる。
例えば昆虫などは、学習なしに複雑な行動を決定している。昆虫のように、親との交渉が希薄で寿命も短い動物では、そもそも学習による行動様式の新規獲得は困難であり、先天的に傾性として与えられた情報処理と行動との枠組みを持っていなければ、種の保存自体が困難であろう。これと比較するなら、哺乳類では、学習による行動様式獲得がより重要な役割を果たしていると思われるのだが、この場合であっても、感覚情報の処理や、行動選択に関してある種の先天的な傾性を持っているのではないかと思われる。
では、この傾性が存在するとして、それはどこから由来したものであろうか。ここで進化という概念は、ほとんど説明にはならないのだが、とりあえず納得のできる理由付けとしては考えられるかもしれない。動物(哺乳類)は感覚処理と行動にある種の傾性を持っていたから、それを発展させながら現在の形に到達したと考える以外にはないように思われる。
人間の共同作業(分業)
人間と他の哺乳類との身体構造上の相違はそれほど大きなものではない。しかしながら人間は言語を獲得することによって、他の哺乳類とはかけ離れた特徴を持つに至った。
ところで、身体構造にさほど大きな相違のない動物が、他とかけ離れた特徴を持つとき、その特徴は動物の利己遺伝子存続に有利に働くべきものであると考えられる。また、この様な特徴が一挙に出現してきたとは考えにくく、種として徐々に獲得されてきたものと思われる。このことを別の視点から考えるなら、他の動物では言語を発達させることに人間ほどは大きな利点がなかったと考えてよい。
意思疎通のための音声の利用としては、群れを作る動物はいずれもある程度まで相互に情報を伝え合っている。一方、音声の複雑な使い分けとしては、一部の鳥類にそのような能力を持ったものが見られる。これらの動物で、人間に見られるような言語の発達が見られなかったのは、その身体構造上の制約から、音声を用いた複雑な意思伝達を行うことにメリットを見出せなかったと考えられる。
それでは、人間が言語使用にどのような利点を見出したのかといえば、それは共同作業(分業)であったと考えられるわけである。
実際、共同的な群れを構成しない動物では、複雑な意思疎通の必要性はない。また、単純な記号程度の意思疎通で十分な共同行動しか行わない群れにも言語を持つことに利点は見出せない。言語の形での意思疎通が有効なのは、それぞれの個体がある程度以上複雑な作業が可能であり、複数の個体が異なる作業を協調的に行うことによって、単独の個体では不可能な全体作業が可能となる場合である。しかもこの時、互いの作業進行状況や、相互の間に生じる干渉などの情報を十分正確に伝える音声記号分節ができなければならない。
このことを考えるなら、人間の二足歩行可能な身体という特徴が、言語成立と発達のために不可欠な要素であったと言える。協調的な群れにあって、自由な両手の使用は十分に複雑な作業を可能とするし、直立姿勢によって自由度の増した発声器官は複雑な音声分節を可能とする。
音声を利用する共同作業は、最初から高度なものである必要はない。最低限周囲の個体よりは利己遺伝子保存のために有利となる共同作業が可能であれば、そのような特質に優れた遺伝子が残る確率も高まる。同時に、より高度な分業を行うために適した身体条件も、種の内部で固定されていくであろう。
だから、協調的な群れの中で、ある閾値を越えて共同作業に適した身体構造を獲得する個体が出現するなら、その種は将来の言語獲得への条件を満足したと言えるであろう。この視点からすれば、人間以外の動物では、可能な作業の複雑さ、音声記号の十分な分節、協調的な群れの構成という条件をすべて満たすものはいないと考えられる。
行動と言語
言語は人間行動に大きく影響しているが、一方で行動を規定しているものは言語だけではない。むしろ、言語と行動の間にはある種のギャップがあるようにも感じられる。
動物は、人間のような言語を持たないが、十分に状況に順応した行動が可能である。これについては類似性に基づく行動決定が行われていると考察した。このことはまた、plan-do-see構造は、必ずしも言語の介入を必要としないことを示す。人間の場合にも、類似性に基づく行動決定の構造が全く存在しないとは考えられない。むしろ、こちらの構造の方が行動決定には一義的で、言語の効果は二次的なものに止まると考える方が適切であろう。しかしそれでは類似性に基づく行動決定とはどのような事態を指しているのだろうか。
動物が学習に基づく、有効な行動を行うという視点からは、経験を類似性に基づいて構造化したネットワークというものを考えることができるかもしれない。人間を含む動物の経験とは、基本的には感覚と運動である。ここでは感覚器を通して外部からもたらされる感覚刺激と、内部から生じる感情および欲望(衝動)、行動の意図(plan)と運動感覚が含まれるであろう。それぞれの感覚における類似性や、行動と感覚情報の時間推移といったものが動物の経験を構成していると考えられる。
これらの感覚と運動は、類似性や共起、遷移などを手がかりに、構造化された形で記憶されるであろう。類似性が問題になるところから、この記憶の構造は、言語記号の下に同一化された、点や線としてのノードやアークからなるのではなく、ノードもアークもある種の広がりを持つ、ファジイなネットワークの形をとると考えて良いかもしれない。このネットワークを感覚記憶ネットワークと仮に呼ぶこととしよう。感覚や運動は、動物が活動している限り、継続的に起きるものであるから、このネットワークは動的に常に再構成されているものである。そこで学習された行動とは、動的に変化しつつあるファジイな感覚記憶ネットワークの中で、現在の感覚と類似性を持つ部分ネットワークを見つけ出して、過去に有効性の認められた行動を選択することになると考えられる。
ところで、外部刺激の中には音声や文字で与えられた言語記号も含まれる。ここで言語記号は記憶ネットワークのある部分に関連付けられるのだが、もし言語記号が、単なる感覚像を越えた、同一性の保証された記号として解釈されるとするならば、それは元のネットワークとはレベルの異なる抽象的な構造として位置づけられるであろう。ここでは、感覚記憶に基づくネットワークと、その抽象化としての言語ネットワークが、いわば重層化する形で関連付けられていることになる。そして、同一性外延集合や、言語記号レベルでの論理操作などは、抽象化された言語レベルでの事象ということになる。
これら二つのレベルの構造の間にどのような関係が存在するのだろうか。実際に存在する関係は、その性格からして言語的なものではありえないから、おそらくは正確な定義のできないものであろう。ただ、それぞれのネットワークが完全に独立したものとは考えられないのであり、感覚記憶での構造変化は言語構造にも影響するし、逆に言語レベルで変化が起きるなら、それは感覚記憶にも影響を及ぼすと考えるべきであろう。
行動に関して言えば、主要な決定は感覚記憶ネットワークで行われ、言語ネットワークはこれを補完するものと考えられる。人間の場合を考えるなら、極端な場合発話という行動においてすらも、言語ないしは思考が関与しない行動がありうると思われる。日常の雑談などでは、ほとんど反射的な発話も見られるのであり、言い間違いや失言などでは、言語的反省が加わっていればありえないような発話も起きることがある。これは、感覚記憶ネットワークのレベルだけで行動が起きたと考えられるであろう。また、本文でも例に引いた熟練作業などでは、基本的に言語は介在しない形で行動が起きていると考えられる。
おそらく、感覚記憶ネットワークでは十分に有効な帰結が想定できないか、あるいは結果の帰結について、重大な副作用などのある種の不安が感じられるときに限って言語による介入が生じると思われる。この時言語は、感覚によって直接には感知できない事態を推論することにより、可能な行動案の拡張と、その帰結の推論をい、より幅広い選択肢から行動を選ぶことになると考えられる。
このように考えるとき、動物は感覚記憶ネットワークにほぼ全面的に依存して行動を決定しているのに対して、人間は感覚ネットワークと言語ネットワークとの相互作用の中で行動を決定していると考えられる。
感情について
感情は動物の身体外部から由来するものではない。それは、身体内部のプロセスであって、認識した外部状況に応じて変化するものである。だから、いわゆる五感とは一線を画すべきものである。
感情が身体の内部状態であって、認識した外部状態に対応するものであるという事実は、外部状態に対する評価を表すものであると考えるべきかもしれない。
感情は例えば喜怒哀楽というように表現される事があるが、哀/楽は静的な状態に対する評価であり、喜/怒は変化の結果に対する評価であると考えるなら、評価として妥当なものと考えられるであろう。これらの感情の動きによって、様々な学習が可能になっていると考えることもできる。
私的言語
言語は人間の学習情報の中で特別な位置を占めるが、一方でその基礎を考えるなら、依然として感覚記憶ネットワークに基本的には制約されている。このことから、言語記号が他のどのような感覚記憶といかなる関係を持つか、また、他の言語記号とどのように結びつくかは、言語を操作する主体の過去の経験に依存することになる。
個体の経験はそれこそ個別的であるから、個体内部の言語構造もすべて個別だということになる。尤も、個体が人間社会の中で成長し、経験を積む以上は、極端に異質な言語構造を獲得する事もまた、考えにくいことではある。
言語の使用について、言語の意味はその使用であるとするWittgensteinの主張を認めるならば、言語とは個体がそれをどのように使用するかという問題でもある。ここでおそらくは、内部構造として言語を操作する場合と、外部に対して発話なり書記なりで言語記述を伝える場合とで事情が異なってくる。
内部で言語記号を操作する場合、操作によって状況がより詳細に認識され、より有効な行動が可能であるなら、その言語使用は正しいと言えるであろう。この場合、二つの個体の間で、言語の使用が全く同一であることはありそうにもない。この場合の言語使用は完全に私的であると言える。
一方で、言語を外部に発する場合、外部化された言語は受け手に対して一定の効果を持つことが期待されている。語り手は、これまでの経験から、言語の使用に関して、受け手に期待する範囲の行動を取らせるための言語使用というものについて知識を持っており、その範囲に収まるように言説を構成する。ここで、受け手が期待する行動を起こしたとするなら、それは言語が正しく使われたことを意味している。
このことから言えるのは、語り手は全く私的な立場から言説を構成するのだが、結果として構成された言説が有効に機能するなら、その言説は社会的に構成されたものであるということになる。
ここで興味深い問題として、ある種の理念を表す言語記号を使うという問題を挙げることができるであろう。例えば「正義を実行する」という言説に対して、それぞれの個体は、どのような目的で使用し、また、受け手としてどのような行動を取ることになるのだろうか。
「正義」などの理念を表す記号を使用する場合、個体の内部的使用としてはある事態に対して正義に反するという使用方法が考えられたとしても、それをそのまま特定の他者と共有する形で使用することはできないかもしれない。あるいはそのような使用では、発話の意図を達成することが難しいであろう。
この意味では、特に内部使用としての理念は決して共有できないことになる。それでは、語り手の持つ理念とは、何を基準に判定されるべきものなのだろうか。おそらくこの答えは、受け手は語り手の(内部)理念を理解する必要はなく、ただ、語り手が理念に対応する言語記号を、外部的にどのように使用する傾向があるかを推定できればよいというものであろう。
社会的位置と規制
社会的位置については、社会的記号の有効性確認という問題が存在する。特定の効果を持つと期待される記号を獲得していたとして、実際に行動を起こそうとするとき、記号が期待通りに働くかどうかに関しては実は客観的な保証はない。そこでしばしば、実際に記号が期待通り機能するかどうかを確認したいという誘惑が生じる。これが、欲望という観点から何を意味するのかはより詳しく考察する必要があるかもしれない。
ともあれ、例えば部下に命令できる肩書きという形で記号を手に入れた場合、しばしば必然性のない場合に命令を下すことが起きるし、金銭をむやみと使用して周囲の反応を見る、教養を示す形での会話をしたがるなどの行動を引き起こすことがある。
社会が個体の行動へもたらす規制は、国ごと、民族ごとに相異があるように思われる。日本と比較すると、米国やヨーロッパ系の国々、民族では、上位規程は、社会その物の規定としてはそれほど強い拘束力があるようには見えず、むしろ法的規程を定める根拠として働く面が多いと思われる。また、規制の基本となる小集団も、例えば家族など相対的に小さな集団に止まるように見える。
社会の中の主体
主体は、分業の中で特定の作業の担当者を指定するが、また、因果関係を想定させる根拠ともなり、世界の法則性を推定させる基本を構成するなど、言語において重要な位置を占めるものでもある。社会を背景とするとき、主体には行為責任者という別の重要な位置づけが現れる。
集団メンバーの協働に基づく農業生産社会では、個体の行動が時として極めて重大な効果をもたらすことがある。それは、生産財への致命的な毀損であったり、生産財に対する権利関係の混乱であったりするが、いずれにせよ社会を構成する集団にとって深刻な事態であることに変わりはない。
社会はこのような深刻な事態を回避するために、個体の行動に対して責任をとるべき主体というものを設定し、生じた事態に対する責任を追求することになる。これは、責めを負うべき行動を規制するという上位規定にもつながるであろう。また、個体の間の関係としても、時に感謝、また、時には怨恨として、個体間の関係に影響を及ぼすものとなる。これはすなわち個体の社会的位置に関係する問題であり、人間行動を強く制限するものともなる。
行動の自由について
特に西欧社会では、主体の責任問題に関連して自由意志というものを重視する。個体は特定の行動planについて、それを実行に移すことも、行動を控えることもできるのであり、その選択は原則として個体の自由に任されていると考えるわけである。
しかし、ここでの自由とは何を指しているのだろうか。人間が行動planを思いつくのは、状況としての感覚、感情、欲望に基づいてのことであるとするなら。欲望達成に有効と判断されたplanは、むしろ実行に移されないほうが不自然ではなかろうか。もし、一つの欲望達成のために有効なplanが存在するとして、それが実行に移されないことがあるとするなら、それは他の欲望達成に対して重大な副作用を持つからではないだろうか。
主体の責任が問題となるような行動については、多くの場合社会的位置の問題が関連しているように思われる。つまり、特定の欲望達成のためのplanを実行に移すとすれば、そのこと自体が社会的責任問題を引き起こすことになり、ひいては主体の社会的位置を低め、毀損するおそれがあることが背景となっている。
すると自由の問題は、むしろ欲望の間の葛藤をいかに調整するかという問題であり、問題となっているのは社会的責任問題を顧みず、個体の特定の欲望を達成しようとする行動planを実行する事にある。個体がある行動を選択するのは、特定の欲望が競合する他の欲望に対して優勢となったということであり、そのような状況に至った場合には、行動を控えるという選択肢はないと考えた方が良い。
自由の問題は、一般に考えられているような行動の選択にあるのではなく、行動に先立っての欲望の優先順位の問題であると言えるのではないだろうか。
2011/11/29
情報と可能性
「完全情報を持つ存在」には実際的な意味はない。人間が思考できる限りでは量子論的不確定性や離れた場所からの情報収集に要する時間などの制約から、完全情報を獲得する事自体が不可能と考えられる。完全情報を持つ存在は、存在という観念自体我々の言語を超越したものとならざるを得ず、したがって我々とは無関係な何かということになるであろう。
可能性とは世界のあり方について判断ができない状態でもある。このことはまた、次にとるべき行動を確定できない理由でもある。だが同時にこのことは情報の不足、知識の欠陥と考えることもできよう。
人間である主体は根本的に無知な側面を持っており、それ故に可能性を信じる存在である。行動によって欲望達成の可能性が増すことは保証されてはいない。しかし、だからこそ利用可能な情報の範囲内で最も可能性が高いと思われる行動を選択することが問題となる。
仮に完全情報を持つ存在がいるとしたなら、そのような存在にとって可能性や行動の自由はおそらく無意味である。そのような存在にはただ一つの最適なあり方があるだけであろう。してみると、無知こそが可能性と自由の基本的条件になっていることになるし、 欲望が本来の意味をもつ根拠ともなっていると言えるであろう。
欲望と言語
道徳の世界では、意志(思考)によって欲望を克服することがしばしば目的とされる。しかし、「克服」が一つの行動であるとするならば、それ自体もまた何らかの欲望達成の手段ではなかろうか。言い換えるなら「克服」が単なる「思考=言語」として完結することなどできないのではなかろうか。
欲望を克服するとは、問題とする欲望に対して対立する欲望を意識し、その欲望により高い優先度を与えることだと言えるであろう。
しかし、ここでも「意識」や「優先度付与」という行動が問題となる。「克服」と同様にこれらもまた言語だけで完結できないとするなら、そこには言語以前の構造が働いていると考える必要があろう。克服の問題は、しかしそもそも潜在的には対立欲望が存在しており、欲望間の葛藤を感じていなければ克服という問題自体が存在し得ないことになる。
すると、問題は潜在的に存在する欲望の構造を明かにし、克服すべき欲望との対立関係が明確となるよう、構造を言語化することにあると言えるであろう。
言語記述と理解
外部に向かう言語は、その受け手に行動を促すために用いられる。ここで通常は事実記述の形で表現が行われるが、これは社会的要請という暗黙の合意の下に、ある状況を認識した主体は一定の行動を採るであろうという期待に基づく。
ところで、言語記述の有限性を考えるとき、この状況記述はどこまで詳細に行い得るのか、また、どこまで詳細に行うのが適切かという問題がある。状況は極めて複雑な要因から成り立っており、有限の記述内ですべてを記述するわけには行かない。従って通常は語り手が重要と思うことから記述することになると考えられるのだが、それでもどこまで記述するのが適切かという問題は残る。単純に考えるなら、記述時間の許す限りで詳しく述べることが適切であると考えられるかもしれない。しかし、多くの場合に経験するのは、詳しすぎる説明はかえって受け手の理解を阻害するという事実である。この背景を考えると、受け手の側には行動に係わる内部的な構造があって、受け手は伝えられた言語記述から内部構造への変換を行っているのではないかという可能性が考がえられる。この内部構造への変換に当たっておそらく、受け手の(外部)言語解釈が必要であり、言語記述から受け手なりの事実解釈を生成することが必要になる。詳細過ぎる記述は、この解釈を妨げる結果、かえって理解を困難にするのではないだろうか。