2015年度 大学入試二次試験問題 世界史 (NTCIR12 QALab-2タスク サンプル問題)
Complex-Essay(大論述)
【1】
次の文章は日本国憲法第二十条である。
第二十条 信教の自由は,何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も,国から特権を受け,又は政治上の権力を行使してはならない。2.何人も,宗教上の行為,祝典,儀式又は行事に参加することを強制されない。3.国及びその機関は,宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
この条文に見られるような政治と宗教の関係についての考えは,18世紀後半以降,アメリカやフランスにおける革命を経て,しだいに世界の多くの国々で力をもつようになった。
それ以前の時期,世界各地の政治権力は,その支配領域内の宗教・宗派とそれらに属する人々をどのように取り扱っていたか。18世紀前半までの西ヨーロッパ,西アジア,東アジアにおける具体的な実例を挙げ,この3つの地域の特徴を比較して,解答欄(イ)に20行以内で論じなさい。その際に,次の7つの語句を必ず一度は用い,その語句に下線を付しなさい。
- ジズヤ
- 首長法
- ダライ=ラマ
- ナントの王令廃止
- ミッレト
- 理藩院
- 領邦教会制
[文,外部知識]
Complex-Essay(大論述)
【1】
19世紀末からのインド亜大陸における民族運動は,ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立,およびこれを煽るイギリスの政策によって,しばしば困難な局面を迎えた。インド亜大陸の民族運動におけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の関係や立場の違い,およびこれをめぐるイギリスの政策について,1947年の分離・独立までの変遷を300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
[文,外部知識]
Simple-Essay(小論述)
【2】
ギリシア人はみずからをヘレネスとよび,その国土をヘラスとよんでいた。アレクサンドロス大王の東征以後,ギリシア風の文化・生活様式はユーラシア西部に広く普及し,その後の世界にも大きな足跡を残している。このヘレニズムとよばれる文明の影響に関連する以下の3つの問いに答えなさい。解答は,設問ごとに行*を改め,冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。
*編集注:1行は30文字
問(1)
オリエントあるいは西アジアに浸透したヘレニズム文明は,さらにインドにも影響を及ぼしている。とりわけ,1世紀頃から西北インドにおいてヘレニズムの影響を受けながら発達した美術には注目すべきものがある。その美術の特質について,3行以内で説明しなさい。
[文,外部知識]
Simple-Essay(小論述)
【1】
次の文章を読み,問いに答えなさい。
古来,多くの民族が,軍隊が,旅人がユーラシアを東から西へ,西から東へ移動し,駆け抜け,往来した。アレクサンドロス大王は(1)インダス川まで進軍した。後漢の時代に西域都護の班超によって大秦国に派遣された甘英は地中海(もしくはペルシア湾)沿岸まで達した。匈奴の一部が移動したという説もあるフン族は中央アジアから東ヨーロッパに進出し,同様にアヴァールは中央アジアから西ヨーロッパにまで進出した。
仏典を求めて(2)多くの中国僧が中央アジアを経てインドを訪れた。突厥はヴォルガ川に至る草原を支配下に入れる大遊牧帝国を築いて,ササン朝ペルシアと国境を接した。このころ中国では西方諸国との交流がさかんになり,(3)景教や(4)祆教や摩尼(マニ)教が伝わった。
モンゴル民族はモンゴル帝国を築いて,ユーラシアの大半を支配下におさめた。モンゴル帝国が分裂して中央アジアにはチャガタイ=ハン国が,ヴォルガ川下流域の草原には(5)キプチャク=ハン国が成立した。ティムールはチャガタイ=ハン国の混乱に乗じて,ティムール朝を建て,西に進出してオスマン朝の軍隊に勝利した。オスマン朝はバルカン半島に進出してドナウ川下流域を支配下に入れ,(6)ウィーンを包囲したこともあった。モンゴルの支配から脱却したロシアはウラル山脈を越えて(7)シベリアに進出し,オホーツク海と北太平洋にまで到達し,また(8)清朝と国境を接した。
問1
下線部(1)について,アレクサンドロス大王の東方遠征の影響として,のちにインダス川流域にガンダーラ美術が発達した。ガンダーラ美術について,説明しなさい。
[文,外部知識]
Factoid(事実型)
【1】
次の文章a~tは,項目1~5( 1.ドイツ連邦 , 2.ドイツ帝国 , 3.ヴァイマル共和国 , 4.第三帝国 , 5.ドイツ連邦共和国 )のいずれかについてのべたものである。各項目について正しい内容の文章を選び,その符号を所定欄にマークしなさい。また下線部①,②に関する設問については,所定欄に解答を記入しなさい。
-
a帝国議会の議員は男性普通選挙制によって選出されたが,帝国宰相は皇帝にのみ責任を負った。
-
bフランスとベルギーはドイツの賠償不履行を理由にルールを占領し,空前のインフレが起きてドイツ経済は破綻した。この混乱に乗じてナチスが台頭し,権力を掌握した。
-
cウィーン議定書にもとづき,35の君主国と4自由都市によって連邦が形成された。
-
dイギリスは,英独海軍協定によって,イギリスの35パーセントの海軍力保有をドイツに認め,ドイツの再軍備を追認した。
-
e社会民主党・自由民主党連立内閣はドイツ民主共和国を承認し,東西両ドイツは共に国際連合に加盟した。
-
fベルリン会議は,露土戦争の結果両国が締結していた条約①を無条件で承認し,ドイツはロシアとの提携を外交の主軸にすえた。
-
gドイツ連邦の結成により,神聖ローマ帝国は消滅した。
-
h全権委任法はナチス憲法であり,議会がこれを承認した結果ナチスの一党独裁が可能となった。
-
i国際連盟は恒久的世界平和をめざす史上初の大規模な国際機構であり,その設立と同時に敗戦国ドイツも常任理事国として加盟した。
-
j連合国とイタリア,ハンガリー,ブルガリア等はパリ講和条約を締結したが,ドイツはこれに参加せず,ドイツ連邦共和国に主権が認められたのはパリ協定によってであった。
-
k東方外交に成功をおさめたブラントは,やがて東ドイツを吸収しドイツ統一を達成した。
-
lカールスバート決議は,オーストリアが議長をつとめる連邦議会によって承認された。
-
mドイツ連邦は,フランクフルト国民議会によって廃止が決定され消滅した。
-
nドイツ帝国は連邦制国家であり,各邦は独自の政府と議会を持っていた。
-
oヴァイマル共和国第二代大統領②ヒンデンブルクは,かつてタンネンベルクの戦いで奇跡的な勝利をおさめ,救国の英雄と称された軍人であった。
-
pヴァイマル憲法は成年男女の普通選挙権を認める民主的な憲法であると同時に,大統領に非常大権を認め,独裁制への移行の可能性も持っていた。
-
q初代帝国宰相ビスマルクは,弾圧政策と福祉政策を巧妙に使いわけ,社会主義政党の封じ込めに成功した。
-
rドイツは日本と防共協定を結んでいたので,日本の国際連盟脱退に同調して自らも脱退した。
-
sヒトラー内閣が成立したとき,ナチスは国会の第一党ではあったが,単独で過半数を制してはいなかった。
-
t通貨改革に対する反発としてベルリンの壁が築かれ,ベルリンは東西に分断された。
設問①
この条約は何という条約か。
[その他用語,外部知識]
Factoid(事実型)
【3】
つぎの文章を読み,下線部分(1)~(5)について下記の〔設問〕に答えなさい。また空欄( A )~( J )に適当な語句を入れ,所定の欄にその答えを漢字で正しく記入しなさい。
ユーラシア大陸東部の歴史をかえりみると,(1)遊牧と農業という異なる生業に根ざす国家が,南北に相ついで生まれる紀元前3世紀が一つの画期となる。 ( A ) 山脈の北麓からモンゴル高原にかけての草原に拠点をおく遊牧国家・匈奴と,黄土地帯の農業地域に拠点をおいた秦と漢が,南北に併存する前3世紀に,その後のユーラシア大陸東部の歴史構造の骨格がつくられたのである。
前3世紀に強大な遊牧帝国に成長した匈奴は, ( B ) 単于のもとで,漢の高祖 ( C ) の率いる漢軍を大敗させ,漢との外交関係で優位にたった。しかし,前2世紀後半の漢の武帝による匈奴への反撃と武帝死後の和睦により,匈奴と漢の対立関係は緩和した。
遊牧地域の国家と農業地域の国家とが南北に併存する体制は,(2)3世紀末に勃発した西晋の王族による内乱を契機に新たな展開を見せる。この内乱に乗じた匈奴が,316年,建国時に後漢以来の ( D ) に都をおいた西晋を滅ぼし,遊牧民が次々と中国華北に進出して国家を樹立する激動期が訪れたのである。五胡十六国時代と呼ばれるこの激動期は,439年,遊牧民の鮮卑系 ( E ) 氏のたてた北魏による華北再統一によって終息する。強力な遊牧騎馬軍団にもとづく国家が華北に生まれたのに対し,(3)南方の長江流域に逃れた漢族たちは,南朝の諸国家をつくり華北の北朝の遊牧系政権と対峙した。
この南北朝時代は,6世紀末,華北に拠点をおく隋が,南朝最後の王朝である ( F ) を滅ぼすことによって終わりを告げる。隋の後をついだ唐は,7世紀初に,匈奴の後に最強の遊牧国家となった ( G ) の分裂に乗じて,モンゴル高原からパミール高原辺りまで支配を広げ,遊牧地域と農業地域を包含するかつてない広大な統治空間をもつ国家となった。
しかし,(4)8世紀半ばに勃発した安史の乱は,ユーラシア大陸東部の政治情勢を一変させ,再び,遊牧民が華北の農業地域に進出する時代が訪れる。10世紀初の唐の滅亡と後梁の太祖 ( H ) の皇帝即位に触発されて,契丹の ( I ) も10世紀初に可汗に即位し,936年に華北の半農半牧地域である ( J ) が契丹に割譲され,ユーラシア大陸東部では,強力な遊牧系政権と農業地域に拠点をおく政権とが南北に対峙する体制が再び生まれた。この南北対峙関係は,12世紀から13世紀における女真族の金と南宋の関係に引き継がれ,華北の遊牧系の非漢族政権と江南の農業地域の漢族政権による南北朝時代が再現されることになった。(5)このような,千数百年におよぶ南北併存と南北対峙の歴史的経験は,現代に至るまで中国大陸の政治・経済・文化に深い影響を及ぼしている。
〔設 問〕
(1)
中国の思想は,紀元前3世紀にその後の発展の基礎を固める。前221年に中国を統一した秦の始皇帝が,後代に中国の政治思想を担うことになる,ある学派に対して行った思想・言論統制の名称を,漢字四字で答えよ。
[その他用語,外部知識]
Factoid(事実型)
【3】
人類の歴史においては,無数の団体や結社が組織され,慈善・互助・親睦などを目的とする団体と並んで,ときには支配勢力と対立する宗教結社・政治結社・秘密結社もあらわれた。このような団体・結社に関する以下の質問に答えなさい。解答は,解答欄(ハ)を用い,設問ごとに行を改め,冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。
問(1)
18世紀末の中国では,世界の終末をとなえる弥勒下生信仰に基づく宗教結社が,現世の変革を求めて四川と湖北との境界地区などで蜂起したが,おもに郷勇などの自衛組織に鎮圧された。この宗教結社がおこした乱の名称を記しなさい。
[その他用語,外部知識]
Slot-Filling(穴埋め)
【3】
次の文章1・2を読み,以下の設問A,B,Cに答えなさい。
1 インド史上初の統一王朝とされるマウリヤ朝①はアショーカ王の時代に全盛期をむかえた。この王の死後,インドはしばらく分裂した時代がつづくが,やがて西北インドを中心にクシャーナ朝が建国され,2世紀②半ばに在位したカニシカ王のもとで全盛期をむかえた。4世紀前半,マガダ地方からグプタ朝がおこると,衰退したクシャーナ朝の残存勢力を駆逐して,北インド全域を支配し,南インドにも威勢を及ぼした。この王朝のもとで,インドの古典文化③が集大成され,またバラモン教にインド在来の諸宗教が融合してヒンドゥー教が生まれ,人々の生活に強い影響を及ぼすようになった。このような動きに対して仏教はしだいに勢力を失っていったが, ( 1 ) によってナーランダー僧院④が建立されると,ここを中心に仏教教義の研究が盛んにおこなわれ,また純インド的な仏教美術が確立するなど特筆すべき点が見られる。グプタ朝が滅亡したのち,7世紀前半にハルシャ=ヴァルダナが イ を王都とするヴァルダナ朝を建国して北インドを統一したが,この王が没すると,インドはふたたび混乱して長い分裂時代をむかえることになるのである。
2 1876年,日朝修好条規を締結した日本が朝鮮王国⑤に進出すると,朝鮮国内では開化派と保守派の対立が激しさを増し,経済的な混乱も起こって,1880年代,首都の漢陽で,二度にわたる政変⑥がおこった。このような状況のもと,朝鮮をめぐる日清両国の対立は激化し,1894年,東学党の乱(甲午農民戦争)をきっかけに日清戦争がおこった。そこで敗北した清は朝鮮から退いたが,三国干渉⑦をきっかけとしてロシアに接近した朝鮮は親露政権を樹立し,また1897年には清を宗主国とする関係を解消して朝鮮王国の国号を大韓帝国と改めた。
1905年,日露戦争に勝利した日本は,ロシアの勢力を駆逐し,漢陽に統監府を設置して支配力を強化した。これに対して,大韓帝国の皇帝⑧は,1907年にハーグで開かれた万国平和会議に密使を派遣して日本の干渉を訴えたが受け入れられず,逆に日本はこれをきっかけに皇帝を退位させ,支配を強化した。1909年,伊藤博文が日露関係調整のために訪れた ( 2 ) において韓国の民族主義者に暗殺されると,翌1910年,日本は韓国併合を行い,漢陽を ロ と改称して,ここに朝鮮総督府を置いた。
設問A
空欄( 1 )~( 2 )に入れるのに最も適切な語をa~eのなかから一つ選び,その符号を所定欄にマークしなさい。
( 1 )
-
aチャンドラグプタ
-
bナーガールジュナ
-
cチャンドラグプタ2世
-
dクマーラグプタ1世
-
eチャンドラグプタ1世
[人名,外部知識]
( 2 )
-
aウラジヴォストーク
-
bイルクーツク
-
cハバロフスク
-
dキャフタ
-
eハルビン
[地名,外部知識]
Slot-Filling(穴埋め)
【2】
次の文章(A,B)の の中に最も適切な語句を入れ,下線部(1)~(10)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
A 中国で古くから精度のかなり高い地図が作られていたことは,1973年に湖南省長沙の馬王堆で発掘された紀元前2世紀の墓中にあった(1)絹製の地図によって明らかになった。文献には地図に関する記述はけっして多くはない。春秋五覇の筆頭である a に仕えた政治家管仲の著作と伝えられる『管子』には「地図」篇があって地図の軍事的重要性が強調され,また『戦国策』には蘇秦が合従策を趙王に向かって説いた際,(2)趙国の地勢について論じてから,「天下の地図」をよりどころにして諸侯の領地が秦の5倍であることを力説したことが記されているが,これらの記述は例外的なものである。とりわけ群雄割拠の時代においては地図の軍事的効用が重視されたであろうが,地図が具体的にどのように描かれ,用いられてきたかは明らかでなかった。
天下を統一した秦が有していた地図は,首都 b を劉邦の軍が占領した時に接収されたという。 c が『漢書』の地理志を編纂した時点ではそれを参照できた。しかし,晋の裴秀が五経の一つである d の「禹貢」の記述と晋代の地名を対照させた地図を作成した時には,秦の地図は見られなくなっていた。漢代の地図についても,文献からは具体的な姿を描くことが難しい。たとえば,(3)「東京賦」の著者である張衡が作った「地形図」が裴秀の地図とともに,9世紀の書物(4)『歴代名画記』の「古の秘画・珍図を述ぶ」の項目に挙がっているが,どんな地図なのかを知ることはできない。その点で,漢代の地図の具体的様相を示す馬王堆の地図の発見は画期的だったのである。
裴秀の作品が「禹貢」に関連していることからも明らかなように,夏の禹王に献ぜられた各地の貢品と山川について記した「禹貢」は(5)周代の制度を理想的に描いた『周礼』の地理関連の記述とともに中国人の地理観に大きな影響を与え,後世においてもさかんに研究された。12世紀後半に著された(6)程大昌の『禹貢論』『禹貢山川地理図』や,1705年に江南に巡幸してきた e 帝に胡渭が献上した『禹貢錐指』がその代表的なものである。また,『周礼』の中で「天下の図を掌る」任を担うとされた「職方氏」は,後世には地図を管掌する部局の名前へと受け継がれた。中国で活動したイエズス会士ジュリオ・アレーニが著した世界地理書(7)『職方外紀』(1623年に完成)は,職方の管掌外にある地域を扱うものであることを書名によって示している。これら「禹貢」や「職方氏」の記述と,南北朝時代に酈道元が著わした地理書 f によって,中国知識人の伝統的地理観は形作られてきたと言えるだろう。
True/False(真偽判定)
【1】
次の(1)~(10)の戦い及びそれに関連する事柄についてのべている文章a~dの中で誤っているのはどれか。解答を所定欄にマークしなさい。また下線部①②③に関する設問については,所定欄に解答を記入しなさい。
(1)
ライプツィヒの戦い
-
aこの戦いは,解放戦争最大の決戦で,プロイセン,オーストリア,ロシア等の同盟軍がナポレオンをやぶった。
-
bロシアでは,農奴制の廃止をふくむ大規模な改革によって,この時の勝利が準備された。
-
cこの翌年パリが陥落し,ナポレオンは退位してフランスの覇権は消滅した。
-
dライプツィヒは,かつてルターの主張をめぐって神学討論がおこなわれた都市でもある。
[文,外部知識]
Unique(特殊)
【2】
次の文章を読み,問いに答えなさい。
11世紀に東地中海に進出した A は,ビザンツ帝国を脅かし,ビザンツ皇帝はローマ教皇に救援を求めた。教皇 B は,1095年に(1)クレルモンで教会会議を開き,十字軍を提唱し,熱狂的な支持を集めた。1096年に第1回十字軍が出発し,1099年に(2)イェルサレム王国を建てた。しかし教皇 C によって1202年におこされた第4回十字軍は,(3)ヴェネツィア商人の要求にせまられて,(4)コンスタンティノープルを占領して D を建て,聖地回復という当初の目的から全く外れてしまった。
13世紀に南フランスで広がった異端の E 派は,フランス国王 F の時に根絶された。これにより王権は南フランスにも伸びることになった。さらに14世紀初め,フランス国王 G は教皇庁を(5)アヴィニョンに移し,約70年間その支配下においた。その後,教会大分裂による教会の混乱を収拾するために1414年に開催された(6)コンスタンツ公会議において, H が異端とされて火刑に処せられた。
14世紀頃からみられたカトリック教会への批判は,16世紀の宗教改革へといたることになる。(7)ヴィッテンベルク大学の神学教授だったルターが発表した「九十五カ条の論題」はドイツ中に大きな反響を呼びおこした。このルターの思想的な影響を受けて I は,農民戦争を指導して処刑された。スイスでは, J がチューリヒで,またカルヴァンが(8)ジュネーブで宗教改革をおこなった。この宗教改革の進展に対してカトリック教会は,1545年に(9)トリエントに公会議を開催し,内部改革に取り組んだ。
問2
下線部(1)~(9)に該当する場所を地図中から選び,その数字を答えなさい。
(注) 地図中の線は、現在の国境線を示す。
[symbol,地図理解,外部知識]
Unique(特殊)
【3】
つぎの近代中国略年表の下線部分(1)~(10)について以下の〔設問〕に答え,その答えを正しく記入しなさい。(2)(4)(10)以外は,解答を正しい漢字で記入すること。
1840(1)アヘン戦争(~1842)
1842 南京条約
1844 望厦・黄埔条約
1851 太平天国の乱(~1864)
1860(2)北京条約
1884 清仏戦争(~1885)
1894 日清戦争(~1895)
1898(3)戊戌の政変
1900(4)義和団事件(~1901)
1905(5)中国同盟会結成
1911 辛亥革命
1912 中華民国成立
1915(6)二十一カ条要求
1919 五・四運動
1921(7)中国共産党結成
1924 第一次国共合作
1927 国共分裂
1931 満州事変
1932 上海事変
1934(8)長征開始(~1936)
1936 西安事件
1937(9)第二次国共合作
南京大虐殺事件
1949(10)中華人民共和国成立
〔設 問〕
(10)
下記の語群は,いずれもこれ以後に起きたことである。古い順に上から記号を並べなさい。
- あ.フランスの中華人民共和国承認
- い.中華人民共和国憲法制定
- う.中ソ友好同盟相互援助条約調印
- え.中印国境紛争勃発
[o(symbol-symbol-symbol-symbol),外部知識]
解答形式文 | 5 |
その他用語 | 3 |
symbol | 1 |
人名 | 1 |
地名 | 1 |
o(symbol-symbol-symbol-symbol) | 1 |