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紋切り型の抽出と思考の観察
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よく見る言い回しや他人の考えをそのまま発言することは、あまりしっかりと自分の考えを深めた上での発言ではない可能性が高いだろうと考えることができる。このような発言の構造的類似性を用いて、深く考えた独自の考えか、あるいは深く考えること以外に他の大きな目的がありうるかというようなことを分析できないか考えたい。
文学の分野には「紋切り型」という言葉がある。これは、よくある典型的な様式で書かれた文章や意見、あるいはフレーズを指す概念だそうだ。実生活に置き換えてみると、飲み会で毎回同じ話をする上司や、ソーシャルメディアの炎上場面で多くの人が似たような悪口を書き込む現象が該当するだろう。政治家の演説にも、どこかで聞いたことのある定型的な表現が多く含まれており、これも紋切り型の一種と考えられる。クリエイティビティがない文章である、という意味合いを含むようである。この紋切り型という現象について考えてみたい。
まず、飲み会での「いつもの話」を思い浮かべてみると、完全に同一というわけではないことに気づく。ソーシャルメディア上の悪口も同様で、一見すると同じような内容に見えても、実際には細部が異なっていることが多い。たとえば、若者に関する社会問題が報じられると、「これだから最近の若者は」という趣旨の投稿が散見される。しかし、その前提として述べられるニュースの解釈や、若者に対する評価、「やる気がない」「考えが浅い」「礼儀がなっていない」「昔はこうだった」といった説明部分は、人によって大きく異なっている場合が多い。この場合、特定の一人が同じ話を繰り返しているのではなく、多くの人が似た形式の話をしているのである。そしてそれらは、「よく聞く話」「どこかから借りてきた話」と言われるものでもあるだろう。
では、なぜ人はそれらを「同じような意見」だと感じるのだろうか。飲み会で同じような話をする人について考えると、話し手の立場や視点、そして最終的な結論がほぼ同じであることが多い。しかし、同じ結論に至るとしても、説明の方法が毎回大きく異なり、異なる立場の人に合わせて語り方を変えている場合には、たとえ立場・視点・目的・結論が同じでも、「また同じ話だ」とは感じにくい。たとえば、「映画は面白い」という結論を伝えるとしても、映画好きの立場から毎回異なる作品を取り上げ、それぞれの魅力を具体的に解説するのであれば、それを紋切り型だとは感じにくいはずである。この点を考察する必要がある。
まず観察できるのは、「似たような話だ」と感じる場合、聞き手がその話を高く評価していない可能性があるという点である。強い関心を持っている話題であれば、「また同じだ」とは感じにくい。つまり、似たように感じられる話には、聞き手にとって新規性や妥当性、内容の深さが欠けていると受け取られているのではないかと思う。たとえ現代の社会問題について丁寧に説明していたとしても、聞き手がそこに新しさや説得力を感じなければ、最終的に導かれる「これだから最近の若者は」といった結論は、興味深さや妥当性を持ち得ない。
映画の面白さを具体的に語る場合のように、説明が結論に直接結びつき、聞き手にとって納得可能な流れを持っていれば、「どこかで聞いた話だ」とは感じにくいだろう。したがって、紋切り型と感じられる話には、論の展開のどこかに飛躍があるか、あるいはよくある単純なパターンに沿っているために、聞き手が興味を持ちにくい構造が存在するのではないかと考えられる。つまり、紋切り型とは、論の構成パターンが固定化され、単純で、しかもどこかに受け入れがたい飛躍を含むために、「また同じだ」と認識されるものではないか、という仮説が立てられる。もっとも、これは一つの見立てにすぎず、必要十分条件を示しているわけではない。しかし、SNS上で類似した意見や悪口が大量に見られ、そこに論理的飛躍が含まれていることが少なくないという観察とは一定の整合性を持つ。したがって、ある程度の妥当性を持つ仮説と考えることはできるだろう。この仮説をより厳密に概念化し、必要十分条件を検討していくのであれば、それは哲学的研究に近づく。しかし、ここでは別の方向、すなわちソーシャルメディア分析の観点から考えてみたい。 ソーシャルメディアには、単純で飛躍を含む論が数多く投稿されている。このような投稿が大量になされる原因として、「あまり深く考えずに投稿している」というものが考えられるだろう。実際、誹謗中傷を行った人の釈明として「あまり深く考えずに投稿した」という言葉がしばしば聞かれる。もちろん、深く考えなかったことは免責理由にはならない。しかしここで関心があるのは、投稿の論を分析することで、「あまり深く考えていない」可能性のある投稿がどの程度存在するのか、またそれらがどのような意見内容を持つのかを把握できるのではないか、という点である。
この試みは、これによってソーシャルメディア上の様々な問題を直接的に解決しようとしているのではなく、またそのような投稿が持つ罪深さを明らかにしようとしているのでもなく、単に人々がソーシャルメディアに投稿する際、どの程度ニュースや社会状況と向き合い、思考を巡らせているのか、その様相を把握したいという関心に基づくものである。このような理解は、ソーシャルメディアが人類にとって何であるのか、その一端を理解する一助となるかと考えている。
この目的のもとで投稿の論構造を分析することは、技術的にはそれほど困難ではないように思われる。多くの投稿は一般的な話題に関するものであり、論も比較的単純である。人文学的な分析技術を持つ者であれば、一定の整理は可能であろう。それらを類似性に基づいて分類し、機械的にクラスタリングすれば、「よく見かけるパターン」を抽出することができる。
この種の分析では、個々の精緻な解釈よりも、分析対象の量が重要となる。個々の投稿は精密な理論的分析に耐えるものではなく、ビッグデータ的処理が適している領域である。ここで機械的分析、とりわけLLMの活用が有効となる。LLMを用いて投稿の論構造を抽出し、視点・立場・結論などを付与して構造化する。それらを他の投稿と比較しクラスタリングすることで、「よく見る意見」の群を可視化できる。さらに、どのような意見がどの程度存在し、どのような語調や雰囲気で書かれているのかという全体的傾向も明らかにできるだろう。
近年のSNS文化において、人々は政治・経済・倫理・イデオロギー・差別といった大きな概念に関する情報を、ニュース記事のようなフォーマルな情報源とともに、他者の投稿からも得ている。この状況では、人々がどのような態度で情報を投稿しているのか、またそれがどのように受け取られているのかを大局的に理解することが、現代社会を俯瞰する上で極めて重要であろう。「深く考えた投稿かどうか」という観点は、SNSに対する人々の態度の一側面である。かつては、新聞や雑誌といったメディアが主要な情報源であり、それらを分析すれば社会に流通する情報のあり方を把握できた。しかし現代では、SNSという場に投稿する人々が、どのような姿勢で言葉を発しているのかを理解することが不可欠になっている。現代では、SNSとソーシャルメディアに投稿者がどのような姿勢でのぞんでいるか、その理解が重要になってきているのだと思う。
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