極端な質問による理解

 極端な状況であなたはどう考えますか、という質問をすると、普段の人間関係などを考えないで自分の素直な考え方を聞くことができることが多い。こういう質問を使って、相手の考え方の深い部分を効果的に知ることができないか考えたい。
 
 「もし1億円手に入ったら何する」「生まれ変わったら何をしたいか」など、現実には起こりそうにない、あるいは極端な状況を想定した質問がある。このような質問をされると、人は普段考えないことを考えることになり、時間をかけて思案したり、仲間内で雑談したりと、新鮮な話題として楽しむことが多い。また、このような現実性の乏しい事柄において、自分について深く考えたことを述べることは、害のない自己開示を行うことであるともみなせる。
 これらの質問は他愛のないものであるが、現実の利害関係と結びついていないため、心理的な抵抗が小さく、考え方や価値観の相互理解のための良い道具になり得る。これが会社の会議であれば、多くの利害関係や、組織の人間関係が複雑に絡まるため、容易に自分の考えを言うことができないだろう。また、普段は意識していない自分自身の考え方や価値観について振り返る機会にもなり、自己理解にとっても価値がある。一般に、雑談や議論においては、話題が現実から離れているほど衝突が起きにくく、自分の内面を話すことも抵抗小さくなり、自由で想像力豊かに話しやすいという利点がある。
 このような方法は、うまく使えば有益なツールとなる可能性がある。一方で、現実感があまり反映されていないと思しき回答が出てくるという問題もある。たとえば「宝くじで1億円当たったらどうするか」という質問に対して、「全部貯金する」「仕事を辞めて遊んで暮らす」といった回答はよく見られると思うが、実際に1億円を手にしたときに本当にそのように行動するかどうかは疑わしい。このような回答を前提にしてしまうと、自己理解や相互理解の効果は大きく下がってしまう。質問が現実から離れすぎているため、具体的な想像がしにくく、思考が表層的になってしまうのであろう。
 この問題を解決するには、質問に具体的な条件を与えることが有効であると考えられる。たとえば、「1億円をもらい、1年以内に必ず使い切ること」「余らせた分や、他人への譲渡、投資や不動産に回した分はすべて没収される」といったルールを設定する。このような条件を課すことで、選択を先延ばしにすることができなくなり、同時に現実の生活を前提とした判断を迫られ、会社を辞めて南の島に行く、のような途方もない回答を避けられる。その結果、自分にとって1億円とは何か、自分は何を大切にしているのかを、より真剣に考えざるを得なくなる。自身の価値や考え方を深く探り、いろいろなアイディアを作り出す必要が出てくる。このような問いであれば、自己理解や相互理解に対する効果は高まるだろう。
相互理解において最も重要なのは、相手の価値観や考え方を理解することである。しばしば「同じ時間を過ごせば相互理解が深まる」と言われるが、同じ時間の中で何をして、何を語るかによって、理解の深まり方は大きく異なる。また、一般には自分の考えを話したり、他人の考えを聞いたりすることには抵抗感が伴うことが多い。そのため、抵抗感を小さくする土台として、極端な状況を仮定した質問には大きな価値がある。また、自分自身について深く考える機会は日常生活ではそれほど多くない。このような問いを通じて、これまで意識してこなかった自分の価値観や考え方、感じ方に気づく可能性がある。これらは自己のアイデンティティの形成や強化、価値観の言語化と明確化によるより深い自己理解につながりであろうし、それを通じて、自分の生き方を見直すなど、より良く生きるためのきっかけになるかもしれない。
 このように見ると、極端な状況を想定した質問は、自己啓発やウェルビーイングのための道具のように見えるが、研究的な価値も持っていると考えられる。同一の極端な質問を多くの人に投げかけ、その回答の傾向を分析すれば、その質問がどれほど考えやすいかを評価できる可能性がある。
 ここで、人は想像力が及びにくい状況を考えるとき、どこかで聞いたことのあるありきたりな発想に頼りがちである、という仮説を立てる。この仮説が正しければ、リアリティを持って考えにくい質問では回答の多様性が低くなり、逆に想像しやすい質問では多様な回答が得られるはずである。回答の多様性は、個々の回答の意味やトピック、背後にある感情や意図の距離をLLM(大規模言語モデル)に推定させ、その距離の平均値を見たり、クラスタリングを行うことで評価できる。人に回答を求めることから、手間はかかるのだが、面白い分析結果が得られそうである。また、単に質問の難しさにとどまらず、「人間はどのような状況に対して想像力が働きにくいのか」「どのような条件設定が、リアリティのある思考を引き出すのか」といった問いに対して、この分析から迫ることもできそうである。これは、ナラティブ研究や文学研究、認知科学にも接続する、興味深い研究テーマとなり得るだろう。
 

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