問い立ての価値付けと問いの流通

 ここでは、研究者の持つ思考能力の高さと、それを効果的に用いる場面としての問い立てを考えるとともに、立てられた問いをコミュニティ内で共有し、研究の原動力とする構想について紹介したい。

研究者は一般に、問いを立てることに関して高い思考能力を持っている。研究者の仕事は、これまでにない視点や着眼点を生み出し、新しい知を創出することである以上、その出発点となる問いを立てることは研究活動の中核的な価値を持つだろう。しかし、研究として社会や学術界に認められるためには、単に研究者個人が面白いと感じたことを問いにすればよいわけではない。その問いには、多くの人が納得できる価値があり、客観的な根拠があり、問題意識から問いへ至る論理が明確に通っていなければならない。個人的な問題意識を、このような形で研究の問いへと昇華することは決して容易ではない。高度な思考能力を必要とする作業であり、単なる知識や専門性だけでは実現できない。問いを立てる力は、研究者が持つ能力の中でも特に高度なものの一つだと考えられる。

そもそも、質の高い研究につながる問いを立てることは簡単ではない。もし容易であるならば、世の中は意義深い研究テーマで溢れているはずであり、研究者が研究のネタ探しに苦労することもないだろう。しかし現実はそうではない。多くの研究者は、自身が取り組む研究に関係する問いを考えることに思考資源を集中させている。限られた時間の中で成果を上げる必要がある以上、それは自然なことである。その結果、研究者が持つ新しい視点や発想、見立ての力は、ごく限られた範囲でしか活用されていない。研究者の頭の中には多くの問いやアイデア、価値観や考え方が存在するはずだが、それらの多くは表に出ることなく終わる。アイデアは、それが研究として実施され成果につながったときに初めて社会に現れるのである。

一般に、良い研究には良い問いが不可欠だと言われる。どれだけ研究活動に力を注いでも、問いが適切でなければ大きな成果につながることは少ない。しかしその一方で、研究者の評価は主として研究成果によって行われる。問い立てそのものが評価対象になる機会は多くない。例外的なのは研究費申請などであり、そこでは問いそのものが評価される。研究の成否を大きく左右する問い立てが、実際には研究成果の一要素としてしか評価されていないことには、ある種の非効率さを感じる。そのためか、多くの研究者は問い立てよりも研究実施に圧倒的に多くの時間を費やしている。要するに、質の高い問いを立てることは難しい。しかし研究者はその能力を持っている。そして現実には、その能力の大半が自身の研究テーマのためだけに使われているのである。

この状況を考える上で興味深い観察がある。近年、日本の研究力低下の要因として、予算や時間、人材など研究リソースの不足がしばしば指摘される。しかし、もし研究リソースが十分に与えられたとして、本当に研究成果は大幅に増えるのだろうか。試しに多くの研究者へ、「予算、スタッフ、時間、体力など、研究に必要なリソースがすべて2倍になったら研究成果は2倍になりますか」と尋ねてみた。理論的には、未活用だった資源が使えるようになるため、成果は2倍以上になっても不思議ではない。

しかし実際には、「2倍になる」と答える研究者もいる一方で、「1.3倍程度」と答える研究者も多かった。理由を詳しく聞いていくと、最終的には「アイデアがない」「研究プランが足りない」という話に行き着くことが多い。つまり、研究を進める能力や時間があったとしても、何を研究すればよいのかが不足しているのである。もし研究者の頭の中に有望な問いや研究計画が十分に蓄積されているのであれば、ここで時間を失うことはないはずだ。言い換えれば、研究コミュニティでは研究リソースだけでなく、研究の問いそのものも不足しているのである。

そこで考えたいのが、研究の問いの流通である。研究者が持つ問いを生み出す力を、自身の研究だけでなく、より広い場で活用できないだろうか。また、研究コミュニティ全体の問い不足を解消できないだろうか。その一つの方法として、研究の問いを流通させる仕組みを提案したい。

一般に、研究の問いは研究者個人の所有物のように扱われている。ある問いを考えた研究者は、その問いと強く結びついて認識される。しかし、問いは必ずしも作った本人が研究しなければならないものではない。ここでは、問いを研究者個人から切り離して考えたい。問いは問いとして独立して存在し、それを誰が作ったか、誰が研究するかとは分けて考えるのである。数学では比較的この考え方が浸透している。未解決問題が共有され、多くの研究者がそれに挑戦する。しかし、この考え方をさらに発展させ、問いを作る活動と問いを研究する活動をより積極的に分業し、研究の問いそのものを流通させることを考えたい。

研究者は自身の専門に限定されず様々な問いを生み出し、研究テーマを探している研究者は他者が生み出した問いを利用する。そのような仕組みが実現すれば、研究者の問い立て能力を広く活用できると同時に、研究コミュニティにおける研究の問い不足も解消できるだろう。この考え方は、問い立てと研究実施の分離とも言える。

実際、複数の研究者が深い議論を行うと、優れた問いが生まれることは珍しくない。特に異分野の研究者同士の議論では、新しい視点や価値軸を持つ問いが生まれやすい。筆者が運営してきた神田ラボでも、多くの興味深い問いやアイデア、さらには独自の世界観が生まれてきた。それらはメンバーだけでなく、訪れた研究者にも大きな刺激を与えている。もし問いやアイデアが広く収集され、公開され、流通するようになれば、多くの研究者が刺激を受け、新しい研究テーマを得られるだけでなく、自身の研究構想そのものを更新できるだろう。異分野の研究者との議論は、知らないことを知り、新しい考え方に触れる機会でもある。知的好奇心を刺激し、思考力を鍛える場であり、その成果は参加者自身だけでなく、コミュニティ全体へ還元される。

従来、研究は問いを立て、その問いを研究するという一体の活動として行われてきた。しかし実際には、問い立てが得意な研究者もいれば、実験や分析、理論構築が得意な研究者もいる。得意な人が得意な部分を担う方が、全体として研究の質は高まるだろう。さらに問いが広く流通すれば、多くの問いと研究者との新たなマッチングが生まれる。これまで以上に効率よく、質の高い研究が生まれる可能性がある。そのためには、研究者が生み出した問いを蓄積するデータベースのような仕組みが考えられる。そこでは問いが公開され、議論や改良が行われる。他の研究者はそれらを参考にしながら、自身の研究を進めていくのである。

もちろんこの構想には課題もある。研究者は、自分が生み出した問いに対して所有意識を持ちやすい。他者がその問いを利用したり改変したりすることに抵抗を感じる場合もあるだろう。また、クレジットをどのように扱うかという問題もある。公開された問いを参考にして優れた研究成果が生まれたとき、問いを作った人は共著者になるべきなのか。参考文献として引用するだけで十分なのか。その境界は明確ではない。

さらに、問いに権利や利益が結びつくと、大量の問いを機械的に生成して権利だけを主張するような行為が現れる可能性もある。それでも、問いの流通には大きな可能性がある。実際、ソフトウェアやWeb素材の世界では、利用条件を事前に定めた上で広く公開する仕組みがすでに存在している。フリーソフトウェアやオープンソースライセンスがその例である。同様に、問いを公開するためのプラットフォームを作り、利用ルールをあらかじめ定めることもできるだろう。問いを公開する研究者は、そのルールに同意した上で公開し、利用者も同じルールに従うのである。どのような制度設計が最適かはまだ分からない。しかし、問いを流通させる仕組みそのものは十分に実現可能だと思われる。

実際、いくつかの研究分野では、すでに部分的に問いの流通が行われている。例えば数学や理論情報学では、オープンプロブレム・ワークショップが開催されることがある。研究者が面白い未解決問題を持ち寄り、その場で皆で考えるのである。議論の中で問題が解決されることも珍しくない。また、学会や専門書では未解決問題や今後の研究課題が共有されることも多い。もちろん、学会で共有されるような課題は長期的なものであり、すぐに研究を始めるための問いとは異なる。しかし、これから取り組むべき問いを共有し、研究の発展に役立てるという価値観自体は、すでに学術界の中に存在している。問いの流通という構想は、その価値観をより広く、より体系的に実現しようとする試みなのである。

 戻る          宇野毅明のホームページへ